人生の深みを考えてみるブログ

~現代社会になかなか見当たらない”価値あるもの”を探して~

なぜ、私だけが

「周りの人にはそんなこと微塵もないのに、どうして私だけが・・・〇〇という目に遭わなければならないのか」

 

こんなことを思ったことがある人は誰しも、少なくとは1回はあるのかもしれない。

稀にしかかからない難病や、生まれつきの境遇の不平等さなど、が例として挙げられる。こういう出来事は①自分がそのことで苦しんでいるのに他の人はそれで幸せになっている②自分と同じような境遇の人がほとんどいない③自分ではどうしようもできない

時に、より顕著になって表れてくると思う。

 

これは本当にどうしようもないことだし、つくづく世の中というのは不平等だとは思うが、「河合隼雄の幸福論」の中ではこうした人々の苦しみやつらさをただただカウンセラーとして受け止められている、と書かれてある。

(おそらく、これは一般的に誤解されていると思うのだが、カウンセリングというのは何か先生側が何か患者に働きかけて治そうとする、といったものではなく、ただただその人の気持ちについていく、受け止める、という手法がよくある。これはこれでなかなか難しいらしいのだが・・・詳細は今度書くこととする)

 

もちろん、カウンセラー側にはどうしてあげることもできないし、ただただ話を聞き、その患者の気持ちについていく、追体験することしかできないのだが、それを根気強く聞き続けるのには理由があるという。いろいろあるが、この人はどんな形であれ、「私だけが」と思えるのは素晴らしいということだから、と述べている。

 

もちろん悲しみやつらい経験自体はマイナスのものではあるが、現代社会が没個性的、平等、画一的なところを目指しており、なかなか「個性」というものが見つけづらい中で、このような経験をしていることは、自らの個性を切り開く手がかりとなっているのではないか、ということである。

 

前の記事でも書いたが、親や周りの期待にばかり応えようとしすぎて、一流大学入学直後に自分を見失ってしまった人などのような、自分の個性を見つけることが難しい中で、これはこれで一つのきっかけを掴んでいるというものである。

 

当然、苦しみやつらさのただ中にいる人はこのように考えられる余裕などないだろうし、そんな慰めや気休めの言葉などは到底要らないというかもしれない。これは本当にその通りだと思う。

 

自らに降りかかる不平等・理不尽と戦われている方々に、できる限りの敬意と畏敬の念を抱きつつ、なるべく、自分はできる限りのことを、押しつけがましくなく、できればと思う。

無用の用

荘子に「無用の用」という話がある。簡単に述べてみる。

ある大工は巨大なクヌギの木が神木として祭られているのを見るが、全く無視してしまう。舟を作ればこの木では沈むし、柱にすれば虫に食われるので、全く無用の大木だからである。ところが、このクヌギの大木が大工の夢に現れる。

 

「有用」な木は、果実のためにもぎとられて枝を折られたり、切り倒して何かに使われたりして、天寿を全うできない。結局は、自らの長所と思うところによって自らの命を縮めている。これに対し、自分は無用であろうとつとめてきた。無用なために自分を求める人もいないし、自分はおかげで大木となっている。まさに大用をなしている。

 

現代社会、資本主義社会でこのような現象が起きていると思われる。競争社会でスキルを身に着けて、市場価値を高めて・・・年収を上げて・・・周りの期待に応えて・・・世間体を気にして適齢期で結婚して子供を産んで・・・

価値観として全く否定するつもりはないが、まさにこうした搾取される立場に我々は知らずのうちになってしまっているのではないか。

自分も全く同じで、当然、会社で無用な立場になろうとする勇気もなく、自分がとった学歴なんてものはまさに「周りの期待の象徴」であって、見せかけのものに過ぎないのだが、この大木のように「自分と一致していない周りの価値観に対しては無用であろうと努め自分の考える大用のためには有用であろうとする」生き方を目指していきたいものである。

 

繰り返しになるが、自分はこんなあたかも偉そうなことを言っているけども、決してこの大木のように生きることはできておらず、大木のように振る舞う勇気も持ち合わせていない。ただ、それほど大きな被害が出ないところではささやかながら抵抗を試みて、自分らしい生き方をしていきたいと思う。

 

amzn.to

兄弟

河合隼雄の幸福論より引用)

3匹の子豚でよくあるような、昔話でよくあるパターンに上の兄2人が鼻息荒く何かを試みて失敗するのだが、一番下の、普段はバカにされている弟が成功してしまう、というようなものがある。似たような事例が現実にもあるようだ。

 

ある一流大学に通う兄が相談にやってきた。大学に行く気がせず留年を重ね、もう退学するほかないということのようである。小さいころから成績優秀で、学のない親から大いに喜ばれ、勉強を頑張れば親も先生からもうれしがられるので勉強ばかりしていた。親の期待も一心に受けていた。弟の方はというと、遊んでばかりで成績も悪かったが、親からは兄さえしっかりしていればよい、とのことで放置されていた。兄はやがて一流大学へ進学、弟は高卒で就職した。親は大変に喜んだ。

 

だが、大学入学後、不幸が始まる。高校は何を勉強すべきかはっきりしていたが、大学はそうではない。模擬試験があり、頻繁にフィードバックが得られるわけでもない。周りの人は適当にサークルに入って楽しそうにしているのだが、自分は勉強しか趣味がないのだ。やがて、自分の足元がぐらぐらする感覚になる。今までは両親や周りの期待に応えることをしていただけで、「自分のもの」がないような気がした。やがて、自信喪失し、大学に行けなくなった。ところが、弟の方は事業を立ち上げたのが成功し、若いのに家まで建てて両親と暮らしているという。兄は「両親はいつも私を偉い、弟をだめだと言っていたが、どちらがいいのでしょうか。」と聞いた。

 

そこで次のように答えた。「兄はぶらぶらして親の金を使っているだけ、弟は両親と暮らし、お金を還元している。だから兄はだめ、弟はよい、と言っていると子供のころに勉強していた兄がえらい、していない弟が悪いと言っているのと同じことになる。今、両親の集中が弟に向かっているのは、兄にとっては、昔の弟のように好きなように生き、自分探しをするのによい環境かもしれない。逆に弟にとっては、昔の兄のように自分がしっかりせねば、という使命感を産んでいるかもしれない。その時々でどうこう判断する必要はない。今はぶらぶらしていてもよいので、何か自分を見つけることをぼちぼち探していければよい」

 

自分は一人っ子で親の期待を一心に受けていたから、この兄の気持ちがよくわかる。

一方、たくさんの習い事をさせてもらったお陰で、幼少の自分では見れない・たどりつけない世界を見せてくれた。(大したことはないのだが、例えば、ピアノをやってみる、とかそんなものだ)親にとっては「強制に近いようなもの」と「放置」のバランスをうまくとってやらないといけない気がする。放置しすぎても、こともの世界を広げる助けにならない。かといってすべてを強制させても子供の自我を尊重できない。

精一杯、我々が知っている限りの世界について、その入り口の扉まで案内して、その扉を開けるか、そこから進んでいくかは、子供に任せるのがよいのだろうか。

(ここで、よいと断言してしまってはこの例の親のようになってしまうので、このような形で結ぶことにする)

 

心を揺さぶられた出来事

このブログを書いている以上、タイトル通り、何か自分の琴線が触れられたことを書いていきたいと思うが、やはり自分にとってそれは「人の温かさに触れられた」時だと思う。自分が本当につらいときに手を差し伸べてくれたり、何かを与えてくれたり、そんなときに非常に心を揺さぶられる。

 

いくつかあるが、今日ふと昔のことを思い出した。社会人でタイに一人で旅行に行ったとき、あるホステルにとまった。バンコクにある「Grey Sheep Hostel」というところで、まあどこにでもあるようなドミトリーの部屋だ。年末年始の長期休暇で行ったのだが、そこは自分と同じくらい、もしくはそれより少し若い男の人とその妹と2人で経営されていたと思う。僕はチェックインすると、まあ特にすることもなく、ドミトリーでYoutubeを見てぼーっとしていた(確か、移動や観光で少し疲れていたのだと思う)気づくと夜になったのだが、そのホストがなんと「ご飯にいこう」とラフに誘ってくれて一緒にいろいろなところへ連れて行ってくれた。地元の屋台やスイーツ屋だったと思う。多分、一人で来た自分を気遣ってくれて、誘ってくれたのだと思う。タイのことをいろいろと教えてくれて、僕らはつたない英語でコミュニケーションをとった。自然が好きだというと「クラビ」というところがおすすめだと言われ、その翌日の夜行バスでクラビへ向かった(僕のカウントダウンは一人、夜行バスの中で迎えた 2階建てのバスの中には2,3人ほどしか人はいなかったと思う)

 

なので、確か、クラビに行く前は1晩(もしかすると2晩かもしれない)しか共にいなかったのに、びっくりしたのはその翌日に男の人から、妹はもともと予定があって、今日香港に行った、その妹からプレゼントを預かった(お年玉?)といって僕に小銭入れをプレゼントしてくれた。昨晩はそのようなそぶりも全くなく、たった一晩一緒に食事しただけの僕にである。(もちろん、ここでよくある恋愛どうこう、という話ではない。皆さんもお分かりの通り、僕はモテたりはしないのだ・・・残念ながら)

 

こういう家族のようにフランクに接してくれ、しかも押しつけがましいわけでもなく、自然体でお互いいれる関係というのは本当に素晴らしいし、おそらく気遣いではなく、本当に自然に贈り物をくれたのが本当にうれしかった・・・

 

クラビからバンコクに帰ってきた後も、男の人とは飛行機が出発する直前まで遊んだし、多分、僕よりあまりお金がないだろうに、気づかれないように少し多めにもいろいろ出してくれたりもした。

 

おそらく、僕が再び彼の元を尋ねることはないかもしれないし、彼が僕に対してよくしてくれたからといって、彼にメリットがあるとは考えにくいだろう。その状況でも、親切にしてくれたことがうれしかった。

 

社会人になり、ビジネスの世界に足を突っ込んで、利害関係やコストメリットなど、自分のリソースを費やした先の「対価」やその「効果の度合い」を気にし、日常生活にもそういった考えが浸透してきている自分から見ると、その人はあまりにも尊い

 

限りある人生の中で、自分も他者に対してこのような「贈り物」を与えることができるのだろうか。その贈り物には対価を求めず、ひいては「喜んでほしい」というような邪念もなく、ただ相手を思い、贈ることができるのだろうか。

 

もう一つ、沖縄でも似たようなことがあったが、それはまた別の機会に書くとしよう・・・

運命への姿勢~ものぐさハインツ~

独身者のハインツはものぐさで、毎日の仕事である、山羊を毎日牧場へ追っていくことがいやで仕方なかった。そこで近所のトリイネという山羊を一匹飼っている娘と結婚し、ついでに自分の山羊も追ってもらおうとした。結婚後、トリイネもハインツ同様ものぐさだったので、山羊を追っていくのが面倒なため、隣人の蜜蜂と交換することを提案する。ハインツも同意し、山羊と蜜蜂の巣箱を交換した。秋になり、蜜蜂を収穫し、それを壺の中に入れて棚の上に置いた。トリイネは盗みに来たものを追い払うために頑丈な棒を置いた。ハインツはトリイネが一人で蜂蜜を全部舐めてしまうのが心配で、代わりに鵞鳥を買おうと言った。トリイネは鵞鳥の番をするのが億劫なので、子供を産んで、その子供が鵞鳥の番ができるようになるまではダメだと言った。ハインツは近頃の子供は親のいうことは聞かないと反論。トリイネはそんな子供はこうしてくれればいい、といいって棒を振り回しているうちに、大切な壺を叩き落した。蜂蜜がこぼれるのを見たハインツは「おれの頭の上に落っこちなかったのはしあわせだ。何事も運とあきらめなけりゃいけないもんだ」といい、かけらのなかに少し蜂蜜があるのを見て「この残りかすを2人でごちそうになり、それで、びっくりしたから少し休もうや」といい、トリイネもそれに賛成した。

 

・・・ここには運命(というと、ここでは少し大げさかもしれないが、少なくとも起こった出来事)に対してどうするか、という姿勢が表れている。

 

蜂蜜を落としてしまったことに対し、ふつうは慌てふためいたり、自らが被った損害を嘆くはずなのだが、ここではそれをあっさりと受け入れている。

 

よく、運命に対する向き合い方は2元論でとらえられ、「運命に従うか、抗うか」で対比される。運命を受け入れると、幸福にはなる、と言われているが、そればっかりだと成長はなくなってしまう。運命に抗い、立ち向かい続けた人も、そのために後遺症の残るダメージを追ってしまったりする方もおられる。どちらがいい、とは到底語るのが難しい。

 

そもそも、運命は自分の意思とは無関係な偶然の産物だ、という考え方と、
今までのすべての選択の結果だ、という考え方もある。これも先ほどの運命への態度とかかわってくるのだと思うのだが、すべてが偶然の産物で自らの意思とは関係なく、運命に従おうというばかりだと自分の意思や行動は無駄だという考えに繋がってしまう。かといって、もう一つの考え方だと、身の回りで起こることはすべて自責に繋がり、これもこれで精神衛生上あまりよろしくない。

 

よくあるバランス論、というありきたりの結論になってしまったが、皆さんはここから何を考えられますか・・・?

ある不登校の人の話

(実際に「河合隼雄の幸福論」の中で紹介されていたものに基づいて書く)

ある男子高校生が学校に行かなくなった。本人も行かねば、と思うが、なぜかいけない。おまけに昼夜が逆転してしまって、昼間は寝てばかりになった。たまりかねた親が専門の相談機関を尋ねられた。

 

色々話を聞いてみると、父親は中学校を出てすぐ働かなければならず、大変苦労した。その後自営業を開き、何とか今までやってきた。そこで、自分の息子には同じような苦労をさせたくないと思い、小学校の時から家庭教師をつけてやったり、いろいろとしてやっているのに、子供は親の心子知らずのようで、けしからん、とそういうわけである。

 

ただし、この話を聞いていると、親が子供を思ってしていることは本当に子どものためになっているのか?と考えさせられる。「子供が苦労しないように」という父親の言葉にもあるが、確かに、中学を出てすぐに働かなければならないのは苦労だろうが、自分の意思にお構いなく、家庭教師をつけさせられて勉強を強いられるのも、「苦労」だと思う。結局、父親は「子供に自分の味わった苦労を味わせないために”別の苦労”を押し付けている」のである。

ひと昔では、「ものがない、お金がない」など何かがないことが多かった。ので、それを逆転させた何かがある状態=幸福ととらえられるようになった。ある意味で単純明快なのだが、果たして本当にそうだろうか、という問題に現代は差し掛かっている。

とまあ、こんなことが本には書かれていた。少し、自分の意見を述べてみたいと思う。

上の例で父親は”別の苦労”を子供に押し付けているのでは、と書いた。ここには更にたちの悪い要素があって、それは「子供がどんな苦労を強いられるかさえも選べていない」ということだ。例えば、自分の好きなように遊びほうけ、その結果学校を退学になっては働かなければとなると、確かに苦労はしているのだが、自分の招いた結果によるものが大きい。だが、上の例の場合は苦労自体をそのまま押し付けられてしまっている。しかも父親の方は悪気はないわけである。この結果、子供は納得感がより薄い人生の歩みを進めてしまっているのである。

 

もう一つは後半の幸福の価値観である。現代は昔と比べて便利でものがある時代になっているとは思う。だが、そこに生きる我々は本当に幸福なのだろうか。そもそも、ある・ないという二元論に立っている時点で、我々は幸福を他者と比較してはないだろうか。つまり、皆が一様にものがなければ、その状態には気づかないわけで、「●●ではものがあるのに、自分のところはない」という状態からものがないことへの不幸感が生まれる。それはつまり、他者と自分を比較しているところから始まっている。

ものがある状態になっても、結局状況はあまり大きく変わらず、他者と比べているままだと、「たしかにAさんと同様、これは持ってる、でもBさんが持っているあれはない」といったようにこの手の話は尽きないのである。

 

もう一つ、おそらく、ものがあるということ自体に価値があるのではなくて、

何かがある=選択肢が広がる=自由な状態であるということに価値を見出していたのではないだろうか

例えば、洗濯機がない家庭では、洗濯機があると、自分で洗濯する時間がなくて、その分の時間を子供遊ぶのに使ったり・・・とか、もっとお金があれば、海外旅行にも行けて・おいしいものを食べれて・・・とかである。

 

もし、私たちが自分にとっての幸福とは何かをかんがえるのであれば、こうしたものが潤沢にあると仮定して、その結果何をしようとするか、というところから考え始めてもいいのかもしれない