人生の深みを考えてみるブログ

~現代社会になかなか見当たらない”価値あるもの”を探して~

my answer to the question "what matters to you most ? why?" at this moment.

「あなたは私の子供であることからは逃げられない!!!!」

ー母親が大声で叫ぶ中、4歳ごろだった僕は、親戚中の腕の中を次々と移動され、

 誰の元で寝るかのために、たらい回しにされていた。

 

・・・・自分って誰だっけ?どんな存在だっけ???

 

こうなったのには背景がある。両親は僕が物心つくかつかないかのころ、

僕を親戚がいる外国に預け、半年間の海外旅行へ行った。物心ついてまもなく、全く知らない土地、人、環境に置かれた。特に理由を告げることもなく別れたあの場面はよく覚えている。大泣きしていたし、捨てられたのだと思った。

 

両親はそのあと帰国したが、僕は半ば拗ねていたし、親のことを信用できなくなってしまったので、両親と毎晩一緒に寝ることはなく、毎晩違う親戚の元で寝泊まりしていた。それに耐えかねた母親が激怒し、上記のようなことが起こったのである。

 

この瞬間、自分が何に所属し、誰の元にいるのかといったアイデンティティーのようなものを失った感覚に陥った。日本へ帰国してからも、これに加え別の要因で、ますますそれは強くなった。国籍・人種・親族のようなカテゴリーに僕たちは所属し、そのカテゴリーでの規範を守ることにより受け入れられる。僕には本当の意味でのそれがなかった気がする。僕にとっての最大の関心ごととは「アイデンティティーの獲得」だったのだと思う。

 

こんなことはブログに書いたり、人様に言えるなんてことは絶対、できなかった。

死んでも他人に言うことはないと思っていた。その後、そこそこの大学へ行き、名の知れた企業へ就職したが、今窮地に追い込まれている。そこで、キャリアアップについて考え、出願過程で人生について考える機会があり、アドバイザーからの助言もあり、これを書いている。

 

国連に行きたいとか、発展途上国にインフラを整備して貧しい人々を救いたいとか、今までほざいてきたが、多分それは自分にとっての最大の関心ごとではなかったと思う。

アイデンティティーを失ったと感じ、それを回復し、もしくは、そんなものがなくても絶対的に生きていける人間になりたいのが、本当の自分の奥底にある欲望だと思う。

 

これまで自分は「自分と同じような苦しみを持っている人は大勢いるから、その人を救ってあげたい」と言っていたが、これもアドバイザーから指摘され、ピンとこないといわれた。よくよく考えると、これも上から目線のエゴであり、結局それを通して、自分のことを「受け入れられるべき存在」として周りに見せたかったのかもしれない。

あるいは、国連に代表されるように、「国籍、人種などのborderがないような世界」への憧れからこのようなことを考えたのかもしれない。

 

「本当に起業して、救いたいと思ってるならブログ書いてみろ」と言われ、書こうとしたが、考えているうちに、本当はそう思っていないことに気づいてきたのでこのような展開となってしまった。

 

・・・・キャリアどうなるんかな???

 

ただ、もし仮に、将来起業することがあるのだとしたら、一つの解決したい課題として、「アイデンティティーを失っている人が受け入れられる場所をつくる」ことは一つ挙げたい。なんでもいい、もしかしたら運動好きだし、好きでつながってる場所って大事だと思うから、「友達できるジム」作ってるかも。

そんな場所があれば良いと思いませんか・・・???

白い巨塔(2)

亀山君子が大学病院を辞めた理由を述べるシーンがある

「ここに居ると、人のことを好きになれなくなる 自分のことも」

・・・ここにとても共感した。大学病院などに努めていなくても、そこそこの

規模の組織に所属している人なら共感できたのではないか。

利権争いや自らの保身のために、偽りの言動をするようになる有様を見ることで

亀山君子はこの決断をしたと思われる(彼女が一番好きだった柳原がそうなりかけているところを見たからかもしれない)

自分も、今の会社に対して、「やりがいがあまりない」とか「スキルが身につかない」や「社会貢献の本来の在り方とは違う・・・」とかいろいろ詭弁を述べていたが、

結局のところ一番の理由は、亀山君子と同じで「人のことを嫌いになってしまう」し、

「そこから抜け出せない自分がいやになる」からだと思った。

白い巨塔

白い巨塔・・・この本のタイトル「白い巨塔」は何を指すのか?

白い巨塔=がんセンターであり、これは財前他が掲げる「理想の医療」の象徴である。

この本で一貫して語られているが、この物語は理想の医療に向かっている人々を描き、

それを通じて、「人はどうあるべきか」というテーマを描いている。

つまり、「白い巨塔」=「人間の在り方」と捉えられるのではないか。

思ったことをつらつらと

①〇〇よ、受験に失敗して、何者になるか迷ってて、

 コンビニでバイト暮らししてて、そんな自分が不安だ、というようなことを言ってい

 たが、まあ人間みないずれ、最後には灰と塵になるだけだし、何者かにならないと

 いけないとか、何か成し遂げないといけないとか、周りと比較してどうこうとか

 悩んだり、不安になる必要なんてないと思う。今はそんな暮らしかもしれないが、

 将来誰がどうなっているか、なんてわからないし、もしかした君はとても立派な人になるのかもしれない(立派な人≠金持ちとか、名声を得た人とか、そういうことではない、また、今が立派でないということを言うつもりもない)。いくら富や名声を得ても、あの世にはおそらくもっていけないだろうから・・・・(富や名声を得ることを否定している訳でもない)

まあ、だからといって、というか、だからこそ、どう生きるかということは重要であって、そこが問題になるのだが・・・・・

なので、君も僕も、どのように生きたいか、もう少し一緒にのんびり腰を据えて考えてみるとしよう

 

②そう、上記にも書いた通り、「ただ生きるのではなく、善く生きる」(ソクラテス)ことが重要なのだ。最近、思い返したとき、善く生きていただろうか?ハッとさせられた。あなたにとって「善く生きる」ことは何を指すのか?

 

③お悩み相談でよく「●●で悩んでます~」「ああ、それは研究や論文で明らかになっていて、××という現象でそれには△△という対処法で解決できるってことが示されていますよ~」なんてことがあるのだが、人にとってはこんな解決のされ方、たまったもんじゃない。自分の悩みはその他大勢のデータとは違う。それはほかでもない「私」がもっているものだ。それなのに西洋的な分断をされ、紋切り型の対処法を示されるなんて、凡そ人の心に寄り添ってなんかいない。(ただし、こういう形が救いとなることもある)だから、Kさんの東洋医学的アプローチも加える(「祈り」などの一見、非科学的に見える方法)ということは確かに素晴らしいと思った。そもそも、全てを科学的に分析・診断・治療することは正しいのだろうか?(もちろん、社会の在り方や仕組み上、今のところは科学的アプローチをとることが最適解であるということは認める)

 

 

社会貢献とは?

先日、大学の友達と話したこと

 

「おまえ、最近仕事どうなん?」

 

「転職活動してんねん」

 

「へーそうなんや。またベンチャーで成長したい感じなん?」

 

「いや、社会貢献したくて、そういうとこ受けてる」

 

「へーなんかめっちゃ意外。お前ってそういう考え大学の時あんまなさそうなイメージやからちょっとびっくりしてる。」

 

「そうか?」

 

「うん、で、どんなことしたいん?てか社会貢献ってなんなん?」

 

「最近は金融の決済端末とか、ああいうのは割とマジで社会変えるインパクトあると思ってる。そういう人々の生活にインパクト与えることしたいなあ」

 

「なるほどね、それが社会貢献のお前の定義なんか。」

 

「そうそう。」

 

「おれもさ、今の会社選んだのは社会貢献できるから、っていう話でさ、海外のインフラ整備とかしたいなあと思って入ってんけど、なんか違うなーって感じ。おれとお前の社会貢献って、意味合い違うよな」

 

「というと?」

 

「お前は人々の生活水準をより上げたいけど、おれはなかったらヤバイ、生きていけへんみたいなものを引き上げるというか、お前が0から+へ、俺がーから0へっていうイメージ」

 

「なるほどなるほど まあてか、そもそも社会貢献って何なんやろうな」

 

「それな 結局世の中に価値生み出してる時点で社会貢献よな 会社が利益あげて中の人の雇用生み出してるのもそうやし、ようこういうときに利益追従と反対の意味として取り上げられて利益優先することを批判されるけどそんなこと全くないよな」

 

「それほんま思うわ 金稼いでそれを寄付するとかの方がおれらの取り組みより断然効果的なんかもしれんし」

 

「どんな社会貢献をしたいか、っていうのとどういう形で、っていう問題あるよな」

 

「でも今の自分の生活というかさ、楽なら楽したいっていうのを守りたいのもあるよな 正直待遇落としてまでやりたいというとそうでもないよなあ」

 

「それなあ 俺らって弱い人間よなあ」

 

「てかさ、なんでお前は仕事いまいちって思うん?」

 

「海外インフラ整備っていっても、結局、それって色んなステークホルダーかみ合わんとできへんしうちはその一部しか担ってへんし、結局、企業やから利益をあげれるならやるってだけであんまほんまに社会貢献したいっていう思いでやるわけではないんよなあ」

 

「じゃあNPOとかやん」

 

「そうやねん でもそこへ飛び込む勇気があるかというとなあ はあ弱いなあ」

 

「うーん、まあそんなことないんちゃう?」

 

「そうかなあ 俺ら学生の時なら、迷わず飛び込むというか、そういう気概持ってた気するねんけどなあ」

 

「まあな」

 

「てか、お前にとっての社会貢献ってなんなん?」

 

「結局さあ、おれは社会全体の幸福の総量を上げることやと思ってるねん」

 

「あーそんなこと言うてる昔の人おったな J.S.ミルとかやっけ?」

 

「忘れた まあだから、それに携わることしたいなあと」

 

「そんなんでも、幸福って難しいやん 例えば俺のケースでいくとさ、未開地域にインフラ整備するとして、それが彼らの文化・生活様式変えて、不幸にさせてまうこともありえるやん」

 

「まあ確かにそやな ブータンとか幸福やもんな つまり比較をしてしまうと不幸になるってことよな」

 

「あーあれこそまさにそうでさ、結局あそこって、外部からの情報入れるようになって結局幸福度ランキング下がってんで」

 

「へ―知らんかった そうなんや」

 

「だからさ、そういうのってエゴの押しつけになってまうよな」

 

「そうやけど、相手がどうしたら幸福なんかを想像するまではエゴではないんちゃう?

それを押し付けるのがあかんだけで、それを持ってこうしたら?を提案するまではそうでもないと思う」

 

「たしかにそやな お前ええこというやん」

 

「まあな」

 

「幸福の総量ってどうやってあげんの?」

 

「革命や 革命するしかない 人々の価値観とか比較することとか

 根本的な枠組みをひっくりかえすんや」

 

「(あー大学のときもこいつそんなぶっ飛んだおもろいことゆうてたなあ)

 あーね、確かに一理あるっちゃあるかも」

 

マルクスも結局比較することから逃れられん限りはあかん、みたいなこと言うてたきがするねん」

 

「ほーん、知らんかったなそれ まあ転職活動がんばれよ てかまともな話しておもんないからしょーもない話しようぜ」

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

 

思ったこと J.S.Millの幸福論よもーっと

※J.S.Millは「幸福論」ではなく、「On liberty」(自由論)でしたね。こんなしょーもない間違いをするまでに落ちぶれてしまいましたね・・・・

 

沖縄で出会った”秀斗”という少年

資格試験も終わったし、何となく今日は寂しいし、記事を書こうと思う。

大学5回生の夏に、一人旅で沖縄へ行った。那覇へついて、適当に宿を探していると、確か一泊1500円くらいのゲストハウスがあった。何も考えず予約してみた。木造の建物で簡素なゲストハウスだったが、ユン卓といって、みんなで囲んでごはんを食べたり、お酒を飲んだりするらしい。たちまち、他の旅行者と仲良くなった。埼玉から来ていたカップル(結婚おめでとう!)、ダイビング旅をしている人、商社の一般職とアナウンサー、同じ大学出身のぶっ飛んだスタッフ、同性愛者の人(後にいろいろされたがここでは怖くて言えない笑)などだ。飲み屋も併設されていて、ごはんを食べて、横の宴会場へ言って、とにかくみんなで楽しんでいた。こういうゲストハウスには地元の人も集まるのだが、そこで僕は中2の秀斗という少年と仲良くなった。坊主頭で野球少年で母親と一緒に暮らしているらしい。すごく内気なやつで余り話さず、余り他人に心を開きそうな様子ではなかったが、僕が積極的に話しかけたり(もちろん僕はコミュ障なので泡盛の力がなかったら会話なんてできなかったかもしれない)、そもそも僕がいじられまくっていたから、秀斗も僕をいじるようになって仲良くなった。旅行に来たのになぜか秀斗と2人で映画を見に行ったりもした。地元でしかいかない店に連れて行ってもらったりした。僕はそういうのが好きだ。観光客のために作られた観光スポットを回るなんかよりも、地元の人が愛し、慣れ親しんでいる文化に触れたいと思うからだ。母親は秀斗をものすごく優しく見守るような、一見放置しているようで、すごく愛情を持っているような気がした。でも、何か話していると過去にツラいことがあるような、傷があるようなそんな気がした。(僕はたまにこういうのに敏感に気づくことがある)だからこそ、という訳ではないが、一層気にかけて、楽しく遊ぼうとしていた。この予想は的中して、何かの会話の中で父親の話になり、彼ははっきりと「死んだ」と言っていた。それがとても印象に残っている。彼のあっけらかんとした口調がより一層、その裏の悲しみや苦しさを想起させた。母子家庭だということは何となく雰囲気で分かっていたが、やはりそうだったのか。

とてもいたたまれない気持ちになったが、もちろんそんな同情をかけるのは自らのエゴだし、僕は気にしないふりをして接していた。その後、石垣島へ飛び(これもノリで決めた)離島をめぐり1週間ほど経った後に帰ってきた。

その後、どういう経緯かは分からないが、地元の人が僕を地元のよさこい祭りに招待してくれ、一緒に行くことになった。その時、秀斗と彼の母親もいたのだが、母親は僕とはそれまでほとんど会話も交わさず、話したこともなかったのに、当たり前のようにコンビニが売店かでごはんを買ってくれ、当たり前のようにくれた。これもなんかとんでもなくうれしかった。正直、話を聞いていたり、様子を観察している限りでは失礼ながら裕福な家庭、という訳ではなさそうだったが、当たり前のように僕を歓迎してくれ、もてなしてくれた。秀斗と仲良くしているのも知ってくれ、感謝の念もこめて、だったのかもしれない。(これは誇大妄想かもしれない)その後も、家族同然というのは行き過ぎかもしれないが、何もいわず、当たり前のように親しい人として接してくれたのを覚えている。母親を通して、秀斗と心が通った気もしてうれしかった。連絡先は交換しているが、もちろん今は連絡をとってない。連絡はとっていなくても、幸せになってほしいと思っている。そもそも、そう思える人がいて、そんな人と出会えて、交流できたということが幸せであり、生きててよかったと思えることなのかもしれない、と最近思う。あいつ元気かなあ。今やと二十歳くらいやなあ。(おわり)

命の尊さについて

最近、といっても少し昔だが、ある方の発言が炎上していた。

「自分が飼っている猫の命とその辺で生活しているホームレスの命なら、前者の方が自分にとっては大切だ」というような趣旨だ。まあ、これ自体の賛否はもういろいろと述べられているので、それ以外の観点になりそうな所を少し考えてみたい。

後の主張が曲解されないように前もって言っておくと、私も同様、特定の人種もしくはコミュニティもしくは何等かの価値判断によってカテゴリー分けされる方々に対してのヘイトスピーチや差別を助長する発言は断じてあってはならないと思うし、そのような思想は毛頭ない。

 

発言自体の賛否意見を聞いていると、例えば、賛成の人は「人間だれしもそう思っている節があるよね、言葉には言わないにしても」とか、反対の人は「命は平等だし、仕方なくホームレスになった人もいて、とてつもない努力をされている方々もいる。その人たちの命の価値が低いなどどいう発言は赦せない」などといったものだ。

 

まあどちらの言うこともそれはそれとして、ここで注目したいのは、上記のような「命は平等なのかどうか」もしくは「ある命が他に比べて優先順位が低いという思想自体が許せない」というような議論・主張の枠組みには、そもそも、「我々は何らかの形で命の価値を判断できる」という前提が隠されている風に思える。

 

まず、その前提に対しては、私は基本的には反対の立場をとる。命に定量的・定性的な価値があって、それは公正・客観的に議論されることで、価値についてのある一定の合意形成が得られるという風に基本的には思っていない。ここについては踏み込むと、かなり深入りしなければならないのでこれにとどめておく。

 

上記についての前提を疑ってみたい人には、以下のような例を参考に考えてみてほしい。(大学のころの授業や本などを思い出して、書いている)

 

①(大学のころの「自由と責任について」の哲学の授業)

これは仮定の話だが、「あなたは優秀な医者で、ある飛行機に搭乗しようとしている。しかし、ある人が倒れてしまっていて、あなたの助けなくしては生きられない。ただし、この人を助けると、飛行機に乗り遅れてしまい、参加予定の学会に出られなくなる。その研究発表が認められないと、将来多くの人の命が救われないことになる。この目の前の人を助けるべきか?」

 

ドストエフスキーの「罪と罰」での主人公の殺人の話(詳細割愛)

 

③「カラマーゾフの兄弟」での神の存在証明に対する反論(同上)

次に考えてみたいのは、とはいえ、現実問題はその判断を迫られている、ということである。例えば、現在の医療現場では体制ひっ迫から「誰を受け入れて、誰を断るか」という判断を現場はしなければならない、というニュースを見る。社会に生きる人としては常に現実問題としてこれらに対峙しなければならないものであり、他の制約条件や自らの信念・組織全体の方針に従って決定を下す、ということになる。

 

ここで大切なのは、現実的にそのような選択を迫られ、判断せざるを得なかったとしても、我々は後に、それに対して必ず振り返り、悩むはずである、ということである。

発言が炎上したのはその心の動きを無視してはっきりと価値の優劣を断じてしまった、という所にあると考える。

悩んだところで確かに、実際には何にもならないし、無駄なことかもしれないが、

それが無力な私たちのせめてものできることでもあると思う。 

 

この一連を通じて、昔は問題のいろいろな側面に気を取られ、無駄に悩んだりしている自分が嫌いだったが、そうでもないと思えるようになってきた。

確かに、悩むこと=悪で、知識を得ることで悩まない状態にもっていき、何事も判断して動ける、という人が一般的にはよしとされるし、そのような人が遍く尊敬されていると思う。まあ確かに、悩んでいる人にとっては指針・答えがいつも明確ではっきりと示してくれる人は尊敬の対象になるはずである。

 

ただ、それだけでが知識の得ることの目的・メリットすべてではないと思う。

知識を得ることで、様々な角度から問題・事象を捉える、ことができる、ということは相手への思いやりや敬意へつながることなのだと思う。そのために悩んだり、苦しんだりすることは、傍から見ると見苦しいかもしれないが、私は立派だと思う。知識は力を得るためだけではなく、思いやりをもてるためにも役に立つと思う、ということだ。

 

自分も周りの人によく「アイツはよくわけのわからんことを考えていて変な奴だ。」とか「頭でっかちでコミュ力のないやつ」とか馬鹿にされているが、誇りを持って、悩み続けるということは継続していきたい。