人生の深みを考えてみるブログ

~現代社会になかなか見当たらない”価値あるもの”を探して~

命の尊さについて

最近、といっても少し昔だが、ある方の発言が炎上していた。

「自分が飼っている猫の命とその辺で生活しているホームレスの命なら、前者の方が自分にとっては大切だ」というような趣旨だ。まあ、これ自体の賛否はもういろいろと述べられているので、それ以外の観点になりそうな所を少し考えてみたい。

後の主張が曲解されないように前もって言っておくと、私も同様、特定の人種もしくはコミュニティもしくは何等かの価値判断によってカテゴリー分けされる方々に対してのヘイトスピーチや差別を助長する発言は断じてあってはならないと思うし、そのような思想は毛頭ない。

 

発言自体の賛否意見を聞いていると、例えば、賛成の人は「人間だれしもそう思っている節があるよね、言葉には言わないにしても」とか、反対の人は「命は平等だし、仕方なくホームレスになった人もいて、とてつもない努力をされている方々もいる。その人たちの命の価値が低いなどどいう発言は赦せない」などといったものだ。

 

まあどちらの言うこともそれはそれとして、ここで注目したいのは、上記のような「命は平等なのかどうか」もしくは「ある命が他に比べて優先順位が低いという思想自体が許せない」というような議論・主張の枠組みには、そもそも、「我々は何らかの形で命の価値を判断できる」という前提が隠されている風に思える。

 

まず、その前提に対しては、私は基本的には反対の立場をとる。命に定量的・定性的な価値があって、それは公正・客観的に議論されることで、価値についてのある一定の合意形成が得られるという風に基本的には思っていない。ここについては踏み込むと、かなり深入りしなければならないのでこれにとどめておく。

 

上記についての前提を疑ってみたい人には、以下のような例を参考に考えてみてほしい。(大学のころの授業や本などを思い出して、書いている)

 

①(大学のころの「自由と責任について」の哲学の授業)

これは仮定の話だが、「あなたは優秀な医者で、ある飛行機に搭乗しようとしている。しかし、ある人が倒れてしまっていて、あなたの助けなくしては生きられない。ただし、この人を助けると、飛行機に乗り遅れてしまい、参加予定の学会に出られなくなる。その研究発表が認められないと、将来多くの人の命が救われないことになる。この目の前の人を助けるべきか?」

 

ドストエフスキーの「罪と罰」での主人公の殺人の話(詳細割愛)

 

③「カラマーゾフの兄弟」での神の存在証明に対する反論(同上)

次に考えてみたいのは、とはいえ、現実問題はその判断を迫られている、ということである。例えば、現在の医療現場では体制ひっ迫から「誰を受け入れて、誰を断るか」という判断を現場はしなければならない、というニュースを見る。社会に生きる人としては常に現実問題としてこれらに対峙しなければならないものであり、他の制約条件や自らの信念・組織全体の方針に従って決定を下す、ということになる。

 

ここで大切なのは、現実的にそのような選択を迫られ、判断せざるを得なかったとしても、我々は後に、それに対して必ず振り返り、悩むはずである、ということである。

発言が炎上したのはその心の動きを無視してはっきりと価値の優劣を断じてしまった、という所にあると考える。

悩んだところで確かに、実際には何にもならないし、無駄なことかもしれないが、

それが無力な私たちのせめてものできることでもあると思う。 

 

この一連を通じて、昔は問題のいろいろな側面に気を取られ、無駄に悩んだりしている自分が嫌いだったが、そうでもないと思えるようになってきた。

確かに、悩むこと=悪で、知識を得ることで悩まない状態にもっていき、何事も判断して動ける、という人が一般的にはよしとされるし、そのような人が遍く尊敬されていると思う。まあ確かに、悩んでいる人にとっては指針・答えがいつも明確ではっきりと示してくれる人は尊敬の対象になるはずである。

 

ただ、それだけでが知識の得ることの目的・メリットすべてではないと思う。

知識を得ることで、様々な角度から問題・事象を捉える、ことができる、ということは相手への思いやりや敬意へつながることなのだと思う。そのために悩んだり、苦しんだりすることは、傍から見ると見苦しいかもしれないが、私は立派だと思う。知識は力を得るためだけではなく、思いやりをもてるためにも役に立つと思う、ということだ。

 

自分も周りの人によく「アイツはよくわけのわからんことを考えていて変な奴だ。」とか「頭でっかちでコミュ力のないやつ」とか馬鹿にされているが、誇りを持って、悩み続けるということは継続していきたい。