人生の深みを考えてみるブログ

~現代社会になかなか見当たらない”価値あるもの”を探して~

ある不登校の人の話

(実際に「河合隼雄の幸福論」の中で紹介されていたものに基づいて書く)

ある男子高校生が学校に行かなくなった。本人も行かねば、と思うが、なぜかいけない。おまけに昼夜が逆転してしまって、昼間は寝てばかりになった。たまりかねた親が専門の相談機関を尋ねられた。

 

色々話を聞いてみると、父親は中学校を出てすぐ働かなければならず、大変苦労した。その後自営業を開き、何とか今までやってきた。そこで、自分の息子には同じような苦労をさせたくないと思い、小学校の時から家庭教師をつけてやったり、いろいろとしてやっているのに、子供は親の心子知らずのようで、けしからん、とそういうわけである。

 

ただし、この話を聞いていると、親が子供を思ってしていることは本当に子どものためになっているのか?と考えさせられる。「子供が苦労しないように」という父親の言葉にもあるが、確かに、中学を出てすぐに働かなければならないのは苦労だろうが、自分の意思にお構いなく、家庭教師をつけさせられて勉強を強いられるのも、「苦労」だと思う。結局、父親は「子供に自分の味わった苦労を味わせないために”別の苦労”を押し付けている」のである。

ひと昔では、「ものがない、お金がない」など何かがないことが多かった。ので、それを逆転させた何かがある状態=幸福ととらえられるようになった。ある意味で単純明快なのだが、果たして本当にそうだろうか、という問題に現代は差し掛かっている。

とまあ、こんなことが本には書かれていた。少し、自分の意見を述べてみたいと思う。

上の例で父親は”別の苦労”を子供に押し付けているのでは、と書いた。ここには更にたちの悪い要素があって、それは「子供がどんな苦労を強いられるかさえも選べていない」ということだ。例えば、自分の好きなように遊びほうけ、その結果学校を退学になっては働かなければとなると、確かに苦労はしているのだが、自分の招いた結果によるものが大きい。だが、上の例の場合は苦労自体をそのまま押し付けられてしまっている。しかも父親の方は悪気はないわけである。この結果、子供は納得感がより薄い人生の歩みを進めてしまっているのである。

 

もう一つは後半の幸福の価値観である。現代は昔と比べて便利でものがある時代になっているとは思う。だが、そこに生きる我々は本当に幸福なのだろうか。そもそも、ある・ないという二元論に立っている時点で、我々は幸福を他者と比較してはないだろうか。つまり、皆が一様にものがなければ、その状態には気づかないわけで、「●●ではものがあるのに、自分のところはない」という状態からものがないことへの不幸感が生まれる。それはつまり、他者と自分を比較しているところから始まっている。

ものがある状態になっても、結局状況はあまり大きく変わらず、他者と比べているままだと、「たしかにAさんと同様、これは持ってる、でもBさんが持っているあれはない」といったようにこの手の話は尽きないのである。

 

もう一つ、おそらく、ものがあるということ自体に価値があるのではなくて、

何かがある=選択肢が広がる=自由な状態であるということに価値を見出していたのではないだろうか

例えば、洗濯機がない家庭では、洗濯機があると、自分で洗濯する時間がなくて、その分の時間を子供遊ぶのに使ったり・・・とか、もっとお金があれば、海外旅行にも行けて・おいしいものを食べれて・・・とかである。

 

もし、私たちが自分にとっての幸福とは何かをかんがえるのであれば、こうしたものが潤沢にあると仮定して、その結果何をしようとするか、というところから考え始めてもいいのかもしれない