人生の深みを考えてみるブログ

~現代社会になかなか見当たらない”価値あるもの”を探して~

兄弟

河合隼雄の幸福論より引用)

3匹の子豚でよくあるような、昔話でよくあるパターンに上の兄2人が鼻息荒く何かを試みて失敗するのだが、一番下の、普段はバカにされている弟が成功してしまう、というようなものがある。似たような事例が現実にもあるようだ。

 

ある一流大学に通う兄が相談にやってきた。大学に行く気がせず留年を重ね、もう退学するほかないということのようである。小さいころから成績優秀で、学のない親から大いに喜ばれ、勉強を頑張れば親も先生からもうれしがられるので勉強ばかりしていた。親の期待も一心に受けていた。弟の方はというと、遊んでばかりで成績も悪かったが、親からは兄さえしっかりしていればよい、とのことで放置されていた。兄はやがて一流大学へ進学、弟は高卒で就職した。親は大変に喜んだ。

 

だが、大学入学後、不幸が始まる。高校は何を勉強すべきかはっきりしていたが、大学はそうではない。模擬試験があり、頻繁にフィードバックが得られるわけでもない。周りの人は適当にサークルに入って楽しそうにしているのだが、自分は勉強しか趣味がないのだ。やがて、自分の足元がぐらぐらする感覚になる。今までは両親や周りの期待に応えることをしていただけで、「自分のもの」がないような気がした。やがて、自信喪失し、大学に行けなくなった。ところが、弟の方は事業を立ち上げたのが成功し、若いのに家まで建てて両親と暮らしているという。兄は「両親はいつも私を偉い、弟をだめだと言っていたが、どちらがいいのでしょうか。」と聞いた。

 

そこで次のように答えた。「兄はぶらぶらして親の金を使っているだけ、弟は両親と暮らし、お金を還元している。だから兄はだめ、弟はよい、と言っていると子供のころに勉強していた兄がえらい、していない弟が悪いと言っているのと同じことになる。今、両親の集中が弟に向かっているのは、兄にとっては、昔の弟のように好きなように生き、自分探しをするのによい環境かもしれない。逆に弟にとっては、昔の兄のように自分がしっかりせねば、という使命感を産んでいるかもしれない。その時々でどうこう判断する必要はない。今はぶらぶらしていてもよいので、何か自分を見つけることをぼちぼち探していければよい」

 

自分は一人っ子で親の期待を一心に受けていたから、この兄の気持ちがよくわかる。

一方、たくさんの習い事をさせてもらったお陰で、幼少の自分では見れない・たどりつけない世界を見せてくれた。(大したことはないのだが、例えば、ピアノをやってみる、とかそんなものだ)親にとっては「強制に近いようなもの」と「放置」のバランスをうまくとってやらないといけない気がする。放置しすぎても、こともの世界を広げる助けにならない。かといってすべてを強制させても子供の自我を尊重できない。

精一杯、我々が知っている限りの世界について、その入り口の扉まで案内して、その扉を開けるか、そこから進んでいくかは、子供に任せるのがよいのだろうか。

(ここで、よいと断言してしまってはこの例の親のようになってしまうので、このような形で結ぶことにする)